世界で初めてヒットしたアーケードビデオゲーム「PONG(ポン)」の紹介です。
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ポンは最古のアーケードゲーム機の一つです。
内容はシンプルな卓球ゲーム(2人対戦)となっています。
2人のプレーヤーは「パドル」を操作して画面上を行き交う「ボール」を打ち合います。
「パドル」が「ボール」に当たればボールは相手側に跳ね返っていき、パドルで相手コーナーに跳ね返すことができなかった場合は相手の得点となり、15点先取した側が勝ちとなります。
Atari社(アタリ社)が製造し、1972年にリリースされました。

ノーラン・ブッシュネルはシジギエンジニアリング社を設立し、世界初のアーケードビデオゲーム機「コンピューター スペース」を開発しました。
その後、ナッチング アソシエーツ社に入り、コンピューター スペースの販売を開始します。
1972年5月までにノーラン・ブッシュネルとテッド・ダビニーはナッチング アソシエーツ社を退社します。
シジギエンジニアリングという社名がすでに他の会社によって使用されていることがわかったので、アタリ社を設立し、シジギエンジニアリング社はアタリ社に組み込まれました。

当初、ノーラン・ブッシュネルは他の企業にアイデアをライセンスしてより多くのゲームを制作することに決めました。
最初の契約は、Bally Manufacturing社(バリーマニュファクチュアリング社)のドライビングゲームでした。
アタリ社設立直後、ノーラン・ブッシュネルは電気工学とコンピューターサイエンスの経験から、Allan Alcorn(アラン・アルコーン)を雇いました。
ノーラン・ブッシュネルとテッド・ダビニー、アラン・アルコーンはアタリ社設立以前にAmpex社(アンペックス社)で一緒に働いていました。
アラン・アルコーンにはビデオゲームの制作の経験がなかったためにノーラン・ブッシュネルは彼にビデオゲームの制作になれさせるためのプロジェクトを与えることにしました。

ノーラン・ブッシュネルはアラン・アルコーンに、General Electric社(ゼネラルエレクトリック社)と製品契約を結んだと話し、Alcornに、1つの移動スポット、2つのパドル、スコア保持用の数字があるシンプルなゲームを作成するよう依頼しました。
このゲームの仕様というのは、ノーラン・ブッシュネルが以前プレイした「Magnavox Odyssey」(「マグナボックスオデッセイ」)というゲーム機に基づいたものでした。

これは後にマグナボックスオデッセイの開発会社のマグナボックス社から提訴されました。
ブッシュネルの弁護士は彼らが勝つことができると感じました。
しかし、アタリの資金を上回る150万ドルの訴訟費用を見積もったため、マグナボックス社と裁判外で解決することを決めました。(和解?)
アタリ社はマグナボックス社に70万ドルを支払い、ライセンス契約を締結しました。

アラン・アルコーンはまず、TTL(デジタル回路の一種)とノーラン・ブッシュネルのゲームについての知識に基づいて独自のデザインを作成しました。
基本的なゲームがあまりにも退屈だと感じたアラン・アルコーンは、ゲームにもっと魅力を与える機能を追加しました。
彼はパドルを8つのセグメントに分けてボールの戻り角を変えました。
例えば、中心セグメントはパドルに対してボールを90°戻し、外側セグメントはボールをより小さな角度で戻します。
彼はまた、プレーが長く続くほどボールを加速させました。
ボールを打ちそこねるとスピードはリセットされます。

もう一つの特徴は、ゲーム内のパドルが画面の上部に到達できないことでした。
これは、固有の欠陥を有する単純な回路によって引き起こされたものでした。
アラン・アルコーンは、欠陥の修正に時間を費やすのではなく、ゲームにもっと難しさを与え、ゲームのプレイ時間を制限することを決めました。

開発の3ヶ月後、ノーラン・ブッシュネルはアラン・アルコーンにリアルなサウンドエフェクトと群衆の轟音を特徴とするゲーム機を求めました。
テッド・ダビニーは、プレイヤーがラウンドを失ったときに、文句を言ったり、ムカついたりするような状況にしたいと考えました。
アラン・アルコーンはプロトタイプを開発するために、日立製のテレビを1.2メートルの木製の台に組み込んで必要な回路を作りました。

バーでプロトタイプのテストプレイ(ロケーションテスト、実際に店舗に設置してテストをおこなう。)をはじめました。
この時、バーと良好な関係を築くためにピンボールマシンも提供しました。
ポンはジュークボックス、ピンボールマシン、コンピュータスペースの近くに置かれました。
ゲームは最初の夜に好評を博し、その人気は次の1週間半にわたって成長を続けました。

すでにポンを売り込んでいたピンボールやビデオゲームの開発会社Bally社(バリー社)と Midway Manufacturing(ミッドウェイ社)の役員にPongをデモンストレーションするためにシカゴに出張に行きました。
彼はバリー社との契約を履行するためにドライブゲームではなく、ポンを使用するつもりでいました。
バーのオーナーのBill Gaddis(ビル・ガッディ)から故障との連絡を受けたアラン・アルコーンが調べてみると、内部の硬貨の収納ボックスが硬貨で溢れかえり、コインの投入口が詰まっていました。

ゲームの成功について聞いた後、ブッシュネルは、アタリがゲームをライセンスするよりも、ゲームを自分で製作する方が利益が上がると判断したが、バリーミッドウェイ社はすでにポンに関心を示していました。
両社との関係を悪くしたくなかったブッシュネルはバリーの役員に対して「ミッドウェイは関心を示さなかった」、また、ミッドウェイの役員に対して「バリーは関心を示さなかった」と伝え、2社の方からPONGのライセンス契約を断るよう仕向けました。

アタリ社は当初、銀行からポンの製造にかかる資金を調達しようとしようとしましたが、ポンがピンボールの一種とみなされてしまい、資金を調達できませんでした。
(当時ピンボールはマフィアと関わりがあるものだったため)
1972年11月29日にリリースされたポンは地元のオフィスで組み立てられましたが、生産台数が1日10台で、品質も悪く効率的ではありませんでした。
しかしアタリは最終的にWells Fargo & Company(ウェルズファーゴ社)から資金を調達し、組立ラインの施設を拡張、大量のPONGを製造し始めました。
その後、外国企業の手を借りてPONGの輸出をはじめました。

生産数は、アタリが当初零細企業だったため、正式な記録が残っていないが、約8000 - 12000、間を取って約1万台だろうと考えられています。
ポンは1974年まで生産され、アメリカでは1970年代の終わりまで、ヨーロッパでは1980年代の初めまで人気を博し、今日のゲーム機市場を形作りました。

・ポンのプロトタイプ
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・ブラウンカウンティのネヴィル公立博物館に展示されたポンの直立キャビネット
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・ポンのゲーム画面
(上部のゼロ、イチは得点表示)
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・ポンの広告
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・参考
https://www.arcade-museum.com/game_detail.php?game_id=9074
アーケードミュージアムより(2018/7/23)

http://www.atarimuseum.com/videogames/arcade/arcade70.html
アタリミュージアムより(2018/7/23)

https://en.wikipedia.org/wiki/Pong
wikipediaより(2018/7/23)

https://ja.wikipedia.org/?curid=68774
wikipediaより(2018/7/23)

それは『ポン』から始まった:赤木真澄 アミューズメント通信社 ISBN 4-9902512-0-2 C3076